西方城址の歴史と価値
西方城は、宇都宮氏の一族であった西方氏の山城です。
築城年代は室町時代の初期の築城と思われます。天正18年 ( 1 5 9 0 )に豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻める時、関東地方の城や領主を書き上げた「関東八州城之覚」(毛利家文書)に「西方ノ城西方駿河守」と記載があります。当時、宇都宮氏は結城氏や佐竹氏と力を合わせて北条氏と対抗していました。西方城のある場所は、宇都宮領の中でも皆川氏や壬生氏といった北条氏に付いた領主達と境を接する場所にありました。そのため、最前線の軍事拠点として、重視されていたと考えられます。
小田原落城後》西方近辺は結城氏の領地となりましたが、城がその時まで使われていたかどうかはわかりません。慶長8年( 1 6 0 3 )、藤田能登守が西方を領し、西方藩成立します。その時には、東側の丘上にある二条城を陣屋としていたようです。
西方城は、山頂の主郭を中心として四方の尾根に曲輪を配置し、土塁や堀を築いていました。その姿は、鶴が翼を広げて飛んでいく様です。残念ながら、西側の曲輪は造成によって消滅していますが、かっての姿は栃木県立文書館所蔵の西方城絵図によって想像できます。
西方城の縄張には3つの特徴があります。まず、深い堀や高い切岸を築くことによって、敵の進入を阻んでいます。 2つ目は、敵に内部に進入された時の備えとして、土塁・堀・切岸を巧みに組み合わせて通路を屈曲、複雑化し、横矢をかけやすくしていることです。特にみどころ④⑤⑧(西方城址散策マップ参照)あたりの工夫は見事です。3つ目は、枡形虎口を多用していることです。とにかく、虎口を直進させることをできるだけ避けていたことがうかがえます。宇都宮氏の城では、多気山城(宇都宮市)にも多くの枡形虎口が使われています。
戦国時代の山城は、全国に数万箇所あります。しかし、西方城のように多くの工夫が凝らされ、コンパクトにまとまっている例はあまりありません。戦国時代末期における最高レベルの城造りの様子を、歩いて自分の目で確かめてください。
二条城址
二条城という名は、おそらくは、「新城(にいじよう)」つまり、新しい城が変化したと考えられます。はっきりした歴史はわかりませんが、戦国時代に築かれたと思われます。藤田能登守が西方を領し、西方藩が成立すると、その陣屋がこの城に置かれたようです。
城は、東側の一部が東北自動車道によって削られた他は、おおよそよく残っています。中央部の主郭は高い城壁を持ち、一部に石垣が残っています。また北西隅には櫓台も残っています。西側尾根伝いは、巨大な二重の堀切(主郭をめぐる腰曲輪を含めて三重という解釈も可)を掘って、遮断しています。北側斜面には堀を設けて敵の斜面移動を抑えています。
屈曲する虎ロもあり、部分的に技巧を凝らしていますが、切岸の高さを利用して敵を防ごうとする意図が強いようです。
※道が悪い場所があります。ハイキングに適した靴・服装を使用してください。